井堂雅夫物語Story of Ido Masao

私の原点、中国の大地と岩手の大自然

雅夫(右)1歳。兄と共に。

雅夫(右)1歳。兄と共に。

終戦直後の1945年11月、私は中国大陸東北部の北票という街の防空壕の中で生を受けました。まだ戦後の混乱が続く翌年、乳飲み子の私を抱えて生死を分ける岐路を何度もくぐり抜け、両親の実家である京都に引き揚げて来ました。間もなく父は岩手県に職を得て、私たち一家は京都から岩手へ移り住むことになりました。
人も国土も多くの痛手を負い、みな貧しく生活も厳しい当時の日本でしたが、ゼロから復興に向かって動き出す希望と活気に満ちた時代でもあり、日本の戦後の歩みは終戦の年に生まれた私の歩みにも重なっています。小学生時代の私は、いつも学校から帰ってくるとランドセルを玄関に放り出し、待ちかまえていた近くの子供たちと裏山に登っては日暮れまで帰らないような子供で、勉強をした記憶はあまりないのですが絵は大好きで、たびたび絵画コンクールに入賞しました。全校集会で前に出て表彰されるのですが、それよりも当時あこがれの24色のクレパスや絵の具をもらい、とても嬉しかったことを覚えています。素朴で温かい人々、厳しくそしてやさしい東北の大自然の中で伸び伸びと育まれた14歳までの子供時代は、その後の私が生きていくための芯となりました。
しかし卒業も間近の中学3年生の冬、両親の離別により京都へ戻ることになりました。自分の世界のすべてをもぎとられるような辛さ悲しさに、まだ子供だった私にはどうすることもできず、「必ず岩手に帰ってくる」と強く心に誓った気持ちは今も鮮明に蘇ります。

京都で魅せられた美と技の世界

中学3年生の送別会で。

中学3年生の送別会で。

岩手の大自然を駆け回っていた私にとって、京都は歴史に彩られた、まぶしく美しい都会でした。その都会の中で、自分の置かれた環境の激変に流されそうになりながらも「東北人としての誇りを持とう」と強く思っていたことを覚えています。しかし現実は、進学か就職かという選択を迫られる時期でした。母方の実家に居候の身であった私は、早く社会に出たいと、電気関係の会社に就職し、定時制高校に通うことに決めました。
ところがその後、京都は「もの創り」の盛んな町で、多くの人たちが伝統産業に従事していることを知ったのです。小さい頃から絵を描くことが好きだった私は、祖父のつてを頼って染織作家の元に内弟子として住み込むことに決めました。いま考えると、この時の決断が私がそれから進む道の大きな分かれ道となったように思います。
修業と言っても、弟子の中でも一番若かった私の仕事は、掃除やお使い、犬の散歩などからのスタートでしたが、東北を出てきたときの強い決意を支えに、工芸作家として早く一人前に絵が描けるようになりたいと、仕事の後も模写や運筆、写生に打ち込んだ日々でした。

木版画との出会い

京都で染織家の内弟子となる。

京都で染織家の内弟子となる。

20歳で染色職人として独立した私は、生活のため帯やきものを染める仕事をしながらも、弟子時代よりも自由に時間を使えるようになり、本格的に創作活動を開始し公募展などにも出品を始めました。そんな時、版画家の友人から画商を紹介され、和紙に染料と蝋で描く「バティック」と名付けた作品で初めて個展を開くこととなり、25歳で作家としての第一歩を踏み出すことになりました。その会場で初めて自分の作品が売れた時の感激は、今も忘れることはできません。
やがて染色だけでなく、作品創りに取り組みたいという思いに駆られ始めたころ、その画商から木版画家・斎藤清の作品を見せられました。その瞬間「これだ!」と確信した私は、彼の導きにより木版画の世界に入っていくことになりました。

25歳、初個展(手前左)

25歳、初個展(手前左)

それからというものは時間のある限り彫り師と摺り師のもとへ通い、次々に繰り出されるさまざまなすばらしい技術と木版の歴史の深さに触れ、ますますその魅力に引き込まれていきました。

伝統技術の継承のために

雅堂小袖ショー(東京キュイジーヌ資生堂)

雅堂小袖ショー(東京キュイジーヌ資生堂)

43歳、初の画集『木版の詩』出版記念展。

43歳、初の画集『木版の詩』出版記念展。

中国から伝わった木版画は、日本で独自の発展を遂げました。日本は四季折々の自然に育まれたサクラやカツラの木、コウゾやミツマタなど和紙の原料と、清らかで豊富な水に恵まれています。そしてそこに暮らす日本人の繊細さと手先の器用さで浮世絵という日本独自の文化として大きく花開きました。この素晴らしい技術を守りたい、そのためには私がたくさんの作品を生み出し、ひとりでも多くの人に知ってもらう事が第一だと思いました。
そこで私は、自身を浮世絵時代で言う絵師と位置づけ、絵を描くことに専念することにしました。自刻自摺でないと作家ではないとの見方もありますが、私は何もないところから新しく何かを創造するのが作家であり、その作家の意図を技術で見せるのが職人だと思っています。しかしその職人の数は年々減り続け、高齢化も進んでいるのが現状です。私は版元をつくり、親方に集まってもらい組織的に若い職人を養成する一方で、それを見てもらえる画廊を開きたいと考えるようになりました。そのために、昼は十人ほどの職人たちとともに染色工房で帯やきものを制作し、夜は版画のための下絵制作を続け、念願の制作工房と木版画普及の拠点となる画廊を開きました。そしてもうひとつ、京都の基幹的伝統産業でありながら陰りを見せる和装関連産業の未来に向けても、創り手の一人として何かしなければと、業界の構造改革と伝統的意匠の再認識を提案するために独力で帯やきものを制作し、国外そして業界の外に向けたショーを開きました。私が京都に来て多くのことを学び、夢に近づくことができたのは、出発点である染色の世界があったからこそであり、私のもの創りの原点です。少しでも私にできることがあれば力を尽くしたいという思いは今も変わりません。

岩手で見つめた生命と宇宙

岩手県花巻市の農家跡にアトリエ開設。

岩手県花巻市の農家跡にアトリエ開設。

京都という伝統の町で、もの創りにただ夢中に走り続けて20年になろうとするころ、無意識に描き続けていたモチーフの中に自分が何か言葉にできない根源的なものを求めていることに気づきました。なぜ私はこのような生き方をするのか、何か人の力を超えた大きな存在により、突き動かされているという感覚でした。その時に強く意識し始めたのが宇宙の存在です。生あるものはすべて使命を持ってこの世に差し向けられ、私が創作活動に駆り立てられるのも宇宙の意志であり、そのために私は生かされているのではという思いはやがて私の中で確信となりました。
1994年、縁があり3年後の賢治生誕100年記念の仕事をすることになり、宮沢賢治生誕の地岩手県花巻市にアトリエを開くことになりました。賢治の宇宙観との出会いは必然であり、その精神世界と宗教観が私の創作世界をさらに深めてくれました。京都の生活とは一変した200年前に建てられた農家での一人暮らしは私の心と体を癒し、湧き出る「描きたい」という思いのままに宇宙をテーマとした作品に取り組みました。そして賢治の思想を私なりに実践したいと、アトリエを花巻文化村と名付けて開放し、もの創りによる地域の活性化活動を行い現在はNPO法人としてボランティアによる運営を行っています。

宮沢賢治の弟、故宮澤清六氏と。

宮沢賢治の弟、故宮澤清六氏と。

中国地区後援会アトリエ・工房見学ツアー。

中国地区後援会アトリエ・工房見学ツアー。

私の使命と役割

震災後の陸前高田市「一本松」

震災後の陸前高田市「一本松」

NHK趣味悠々神戸異人館での収録風景。

NHK趣味悠々神戸異人館での収録風景。

岩手県花巻市の宮野目中学での卒業制作の木版画指導。

岩手県花巻市の宮野目中学での卒業制作の木版画指導。

京都のアトリエでは木版画技術の継承のための大仕事として、どうしても取り組まねばならなかった「平成版浮世絵京都百景」を5年がかりで完成させることができました。浮世絵は限定枚数を設けないので、版木が減れば彫り直して摺ることができます。おそらく1000枚近くあるこの百景の版木を使って、私が死んだあとも職人たちの仕事となり木版画の技術がつながっていくことを願い未来に託そうと思います。
2011年3月私が京都で仕事をしている時、東北地方が大震災に見舞われました。アトリエがある花巻は地震だけの被害でしたが、沿岸部は津波による深刻な被害で、町が消え多くの命が奪われました。津波に襲われた地域を訪ねた私は、そこに見たことがない風景が広がっているのをまのあたりにしました。家々が土台だけを遺して跡形もなく消え、海岸に近づくにつれ、それさえもなくなり荒涼とした平地に一本の松だけが残されていました。
70000本もの松林が津波で流され、残ったたった1本の松です。私は自身にできることは絵を描くことしかないと、復興の願いを込めて蓮の花をかたどった木版画の散華を制作しました。その大震災から後、間を置かず兄、続けて母を亡くし、私は現世の無常を痛感しました。そして私に与えられた使命を全うしなければという思いは、さらに強い決意となりました。

ひとりの絵描きとして

六曲屏風制作風景。

六曲屏風制作風景。

いま私はこれまでとは違う、新たな気持ちで絵を描くことの楽しさを実感しています。屏風、襖絵、扇面と、大小形もさまざまな画面に何の制約もなく自由に自分の世界を表現することは、日々新たな楽しさの発見となり描きたいものが尽きません。中国大陸に生まれ、戦後の混乱の中、生きて帰れたこと、岩手の大自然に育まれたこと、京都で伝統の世界に出会ったこと、これらすべて、それぞれの土地の遺伝子が私に使命を果たすよう力を与えてくれているのだと思えてなりません。今まで生きてきた道を振り返ったとき、すべてのことが一本の糸で結ばれ繋がっていることを感じます。私に与えられた使命を自覚し、多くの人の助けを得ながら実践してこられたことを幸せに思い、感謝と共に今後も命の続く限り、この道を一生懸命歩んで行きたいと思っています。

永観堂奉納作品制作風景。

永観堂奉納作品制作風景。

ギャラリー雅堂(1982年開廊)

ギャラリー雅堂(1982年開廊)